【衝撃!】江戸時代に日本を襲った狂犬病の恐怖!その流行と防疫の歴史とは…!

今回は、江戸時代に日本に上陸した恐ろしい病気、狂犬病についてお話ししたいと思います。

狂犬病と聞いて、どんなイメージが浮かびますか?

狂ったように吠える犬、水を見ると恐れる人、咬まれたら死ぬという恐怖・・・

そうです。狂犬病は、狂犬病ウイルスに感染した動物に咬まれることで人間にも伝染する病気で、発症するとほぼ100%の確率で死に至ります。

現在ではワクチンによって予防できる病気ですが、江戸時代にはそのような手段はありませんでした。

では、江戸時代には狂犬病はどのように流行し、どのように対処されたのでしょうか?

今回は、江戸時代の狂犬病の歴史について、詳しくご紹介したいと思います。



もし興味があれば、ぜひ最後までご覧ください。

それでは、早速始めましょう。




江戸時代に狂犬病が日本に上陸したのは、享保十七年(1732年)のことでした。

その発生源は、オランダ商人が長崎に持ち込んだ犬だと言われています。

当時の日本では、中国や朝鮮からの輸入犬も多く、狂犬病流入経路は複数あったと推測されます。

 

しかし、日本最古の医学書である『医心方』には、982年に狂犬病の記載があるということですから、それ以前にも日本に狂犬病が存在していた可能性は否定できません。

『医心方』には、

狂犬病の症状は、口を開けて唾液を垂らし、水を見ると恐れて逃げる。

咬まれた者は、傷口が痛み、発熱し、喉が渇く。

水を飲もうとすると喉が痙攣し、水を恐れるようになる。

やがて狂気に陥り、死ぬ」と記されています

 

さて、江戸時代には、狂犬病に感染した犬がどのように日本に入ってきたのでしょうか?

それは、八代将軍徳川吉宗が鷹狩りのために優秀な猟犬を求めて、オランダや中国から犬を輸入していたことが原因でした。

その中に狂犬病に感染していた犬が混じっていたのです。

その犬が、宿泊した家の飼い犬や野良犬に咬みついて、ウイルスを広めていきました。

当時の日本では、犬はほとんど放し飼いでしたから、犬同士の喧嘩や交尾が頻繁に起こり、狂犬病は瞬く間に長崎市内に拡散しました。

その後、長崎から出た船や人によって、全国に広まっていきました。

宝暦十一年(1761年)には、東北最北端の下北半島にまで狂犬病が到達しました。

たった30年で、致死率100%の病気が日本中に蔓延したのです。




これは、驚くべきことですね。

狂犬病は、狂犬病ウイルスに感染した動物に咬まれることで人間にも伝染する病気ですが、人間から人間には感染しません。

しかし、人間が咬まれた動物を食べたり、咬傷部位に触れたりすることで、二次感染する可能性があります。

また、狂犬病に感染した動物は、イヌだけでなく、ウマ、キツネ、タヌキなども含まれていました。

これらの動物は、人間との接触が多いため、感染のリスクが高かったのです。

 

狂犬病の症状は、感染から発症までの潜伏期間が数週間から数ヶ月と長く、個体差も大きいため、一様ではありませんでした。

しかし、一般的には、咬傷部位の痛みや痒み、発熱、頭痛、吐き気、不安、興奮などの初期症状が現れます。

その後、恐水症や痙攣、麻痺、昏睡などの神経症状が進行し、呼吸困難や心停止によって死に至りました。

恐水症とは、水を見ると恐れて逃げる、水を飲もうとすると喉が痙攣するなどの症状で、狂犬病の特徴的なものでした。

しかし、これらの症状は狂犬病に限らず、他の神経疾患や精神病にも見られることがあります。

そのため、狂犬病と正しく診断することは困難でした。

 

では、江戸時代には、狂犬病の患者はどのように治療されたのでしょうか?

残念ながら、江戸時代には、狂犬病の治療法は確立されていませんでした。

咬まれた傷口から血を吸い出したり、お灸をしたりするなどの対症療法が行われましたが、効果はほとんどありませんでした。

狂犬病の致死率はほぼ100%で、発症したら救命できる可能性はほとんどありませんでした。

 

幕府の医官であった野呂元丈(1692~1761)は著書『狂犬咬傷治方』の中で

「咬まれた傷は軽くとも、あとで再び病が重くなって十中の八,九は死ぬから瘡口は早く血を吸い出して灸をすえるがよい」

と、記しています。

しかし、これはあくまで症状を緩和するためのもので、根本的な治療法ではありませんでした。

 

狂犬病の予防法としては、ワクチン接種が最も有効ですが、日本でワクチンが開発されたのは明治時代になってからでした。

江戸時代には、咬まれた動物を殺すことや、咬まれた部位を切り取ることなどが行われましたが、これらも効果は不確かでした。狂犬病の予防法として最も有効なのは、咬まれた動物に近づかないことでした。

しかし、当時の人々は狂犬病の症状や予防法についてほとんど知られておらず、また犬は人間の友であるという感情も強かったため、それも難しかったのです。



江戸時代における狂犬病の流行と防疫

 

江戸時代には、狂犬病が全国に広がり、幕府や藩は狂犬病の防疫に苦慮しました。



特に、徳川綱吉の「生類憐みの令」によって、飼い犬の登録や管理が厳しくなり、野良犬が増加したことが影響しました。

幕府は、野良犬の収容所や犬小屋を設けて対策しましたが、効果は限定的でした。

また、狂犬病に感染した動物は、イヌだけでなく、ウマ、キツネ、タヌキなども含まれていました。

 

「生類憐みの令」は、1687年から内容が厳しくなり、イヌの飼い主には飼いイヌの登録、すなわち飼いイヌの毛色,性,年齢などの特徴を犬目付まで届け出て「御犬毛付帳」に記帳してもらうことが義務付けられました。

そればかりでなく,飼いイヌが病気になれば犬医者の治療を受けさせ,死亡すれば犬目付に届け出たのち無縁寺に埋葬しなければならず,また飼いイヌが行方不明にでもなれば犬目付の厳しい取り調べを受けなければならなかったという。

 

このため庶民がイヌに係わることを避けるようになり、野良イヌが江戸市中に急増する結果となりました。

幕府は1692年に人喰犬繋留命令を発布し、野良犬を捕獲して繋留することを命じましたが、効果はなかったようです。

1695年にはイヌの収容所を四谷大木戸に設け、野良イヌを収容しました。

しかし、たちまち収容しきれなくなったため、現在のJR中野駅を中心に16万坪に及ぶ広大な犬小屋を設営し、野良イヌを収容して飼育しました。

この犬小屋は綱吉の死後、「生類憐みの令」の廃令とともに、1709年に廃止されました。



しかし、その後も野良犬の問題は解決されず、狂犬病の感染源となり続けました。

 

狂犬病の流行は、江戸時代中期から後期にかけて、特に激しくなりました。

18世紀には、全国各地で狂犬病の発生が記録されています。

例えば、1761年には、東北最北端の下北半島にまで狂犬病が到達しました。

また、1788年には、幕府が救急治療法集である『広恵済急方』を編纂しましたが、その中には

「常犬に咬たるは(つねのいぬにかまれたるは)」、

「やまひ狗に噛たるは(やまひいぬにかまれたるは)」

と、健康な犬に咬まれた場合と狂犬病の犬に咬まれた場合を別項目で扱って治療法が述べられています。

これは、狂犬病の発生が頻繁であったことを示しているのではないでしょうか?

 

狂犬病の防疫に対しては、幕府や藩はさまざまな対策を講じましたが、効果的なものはありませんでした。

例えば、1796年には、幕府が狂犬病の犬を見つけた場合は、その犬とその犬に咬まれた動物を殺すように命じました。

また、1804年には、幕府が狂犬病の犬に咬まれた人に対して、傷口を切り取るか、血を吸い出すか、灸をするかのいずれかの処置をするように命じました。

しかし、これらの対策は、狂犬病の予防や治療にはほとんど効果がなく、むしろ感染の拡大や二次感染の危険性を高めることもありました。

 

狂犬病の流行は、江戸時代末期にも続きました。

1854年には、幕府が狂犬病の犬に咬まれた人に対して、狂犬病の治療法を記した書物を配布するように命じました。

しかし、その書物には、狂犬病の症状や予防法についてはほとんど記されておらず、咬傷部位の処置や漢方薬の服用などの対症療法が主でした。

また、1860年には、幕府が狂犬病の犬に咬まれた人に対して、咬傷部位を切り取るか、血を吸い出すか、灸をするかのいずれかの処置をするように再び命じました。

これらの対策は、当然の事ながら前述の通り、狂犬病の予防や治療にはほとんど効果がなく、むしろ感染の拡大や二次感染の危険性を高めることもありました。

 

江戸時代における狂犬病の流行と防疫は、日本の医学や社会に大きな影響を与えました。

狂犬病は、日本の医学において、感染症の概念や伝染のメカニズムを考えるきっかけとなりました。

また、狂犬病は、日本の社会において、犬と人間の関係や動物愛護の意識を変化させる要因となりました。

しかし、江戸時代には、狂犬病の正しい知識や効果的な対策が不足しており、多くの人や動物が犠牲になりました。

狂犬病の流行と防疫の歴史は、日本の医学や社会の発展において、重要な一面を示しています。

 狂犬病の歴史は、日本の歴史の一部でもあります。

私たちは、その歴史を忘れずに、感謝と敬意を持って、今を生きていきたいと思います。

それでは、今回はここまでです。 ありがとうございました。 

 

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